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12.06.14.津軽式部少輔上屋敷跡(墨田区立川4丁目)

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写真: 12.06.14.津軽式部少輔上屋敷跡(墨田区立川4丁目)

写真: 12.06.14.本多伊予守下屋敷跡(墨田区立川3丁目) 写真: 12.06.14.松平下野守屋敷跡(墨田区)菊川駅前交差点

左、北。
右、東。

津軽サン家だと思って撮ったら、この角地は篠山鉄五郎殿の屋敷だった┐(-△-≡-△-)┌
まあその背後は巨大な津軽サン家。



mixiコメント 2012年06月15日 00:14
◎立川(たてかわ)4丁目――
●「津軽式部少輔」――津軽承叙(つぐみち。1840〜1903年)。
陸奥国黒石藩4代藩主。1〜3代は他所の血だが、承叙は本家弘前藩 藩祖津軽為信の血筋にあたる。

●津軽式部少輔――
黒石津軽家(黒石藩津軽家)・津軽黒石家、津軽家分家
◎旗本1000石 →5000石 →4000石

1、信英(のぶふさ)
信枚次男。家康義理孫。
寛永19(1642)年、兄の3代 信義より1000石分与。旗本となる。小姓組。
正保2(1645)年、幕府より蔵米300俵を支給される。西の丸書院番。駿府出張。
明暦元(1655)年、4代 信政が家督相続にあたり、幕命にて信英は後見となる。これに際し幕府は、分知を5000石とするよう申し渡す。信英は、津軽黒石周辺2000石、平内周辺1000石、津軽家の上州飛び地領2000石、計5000石が与えられ、交代寄合格の大身旗本となった。元の1000石は津軽本家へ、蔵米300俵は幕府へそれぞれ返納している。

2、信敏
嫡男。
弟 信純に1000石分与。
3、政兕(まさたけ)、正六位下・釆女正
嫡男。
寛文7(1667)年生まれ。
天和3(1683)年12月、家督相続。
貞享3(1686)年9月、米沢藩 上杉綱憲養女 阿久理(あぐり。実父は吉良義央、綱憲の実妹)と結婚。しかし翌年死去。
元禄3(1690)年11月、桐間番、12月5代綱吉小姓。
元禄6(1693)年、御役御免、小普請組に再編入。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件。義父 吉良義央が殺害される。事件の翌朝、吉良邸に真っ先に駆けつけたのが津軽采女主従とされる。
享保8(1723)年、日本最古の釣り指南書とされる『何羨録』を執筆。享保元年には執筆完了していたとの説がある。
当時、武士の間では釣りが愛好されており、政兕も嗜んでいた。綱吉により生類憐れみの令が施行されると、「釣魚は武士の修練のうち」と黙認されたが、その後数度の法改正により釣りも規制対象となり、違反者の処罰や釣り道具の販売も禁止された。
宝永6(1709)年、新井白石によって生類憐れみの令が廃止により解禁されるまで規制は続いた。
本書の冒頭には、「釣りは江戸の娯楽」・「釣り船に乗れば社会的名誉は重要ではない」との趣旨の一文が添えられている。

4、寿世(ひさよ)
信政5男。室は政兕娘。
5、著高(あきたか)
嫡男。
6、寧親(やすちか)、従五位下・土佐守
嫡男。
安永7(1778)年5月、家督相続。
寛政3(1791)年、弘前藩9代藩主となる。
→ リンク
7、典暁(つねとし)
嫡男。
8、親足(ちかたり)
上総国久留里藩黒田家3代 直亨4男。末期養子。
津軽黒石家血筋は断絶。
文化2(1805)年12月、黒石家相続。
文化6(1809)年4月、本家9代 寧親の計らいで6000石が加増され1万石の大名となる。


◎大名1万石
1、親足(ちかたり)、従五位下・甲斐守

2、順徳(ゆきのり)、従五位下・左近将監
嫡男。
文政8(1825)年11月、家督相続。
天保10(1839)年5月、弘前藩11代藩主を相続し、津軽順承と改名。
→リンク

3、承保(つぐやす)、従五位下・出雲守
親足次男。
4、承叙(つぐみち)、従五位下・式部少輔、子爵、贈 正三位
弘前本藩一門、津軽順朝次男。黒石家11代。
本家でも津軽家の血統が途絶えたため、家臣格ではあったが一門衆から選ばれた。
承叙 ←朝定 ←朝儀 ←寿世 ←信政
しかし次代、けっきょく途絶える。

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