ヘルプ

15.06.23.関出雲守屋敷跡(墨田区亀沢1丁目)

  • 76

写真: 15.06.23.関出雲守屋敷跡(墨田区亀沢1丁目)

写真: 15.06.23.依田六郎屋敷跡(墨田区亀沢1丁目) 写真: 11.03.24.津軽藩上屋敷跡(墨田区亀沢2丁目 緑町公園)

もしくは岡保右衛門屋敷跡。
立ち位置より東向き・南向き。



mixiコメント 2015年06月27日 17:53
●関左近――
近江国蒲生5000石の旗本。
平姓関氏。桓武平氏維衝流。伊勢関氏。

本姓が平氏の関家は、伊勢国鈴鹿郡を本拠とした豪族。出自には諸説あり、伊勢平氏 平維衡の流れであることは大概だが、鎌倉時代までの数代が明らかになっていない。

元弘3(1333)年、前北条家滅亡後、当代 関盛政が関東から関谷に移り、一党の基礎を築いたとされる。
盛政には5人の子があり、長男 盛澄を神戸に(神戸氏祖)、2男 盛門を国府(こう)城に、3男 盛繁に本家を継がせ亀山城に、4男 盛宗を鹿伏兎(かぶと)城に、5男政実を峯城に、それぞれ配して勢力を伸ばした。
南北朝時代、義良親王(後村上天皇)が奉じられた南朝勢力 陸奥の北畠顕家に従った。伊勢国で北朝方の長野氏や高師泰と戦っている。
室町時代、幕府の支配下におさまるが、南北の皇位継承権の取り決め(大覚寺統3と持明院統とが交互に皇位を継承すること)を幕府(北朝)が反故にしているとして、伊勢国司 北畠満雅が挙兵。協力を求められ幕府軍と戦うが敗れ、降伏。
戦国時代、北伊勢地方を領する勢力となっていたが、織田信長の上洛に関一党はつぎつぎと麾下に降り、離散することとなった。
当代 関一政は蒲生氏郷の与騎となり、秀吉の九州征伐や小田原征伐に出陣した。のち、氏郷の会津転封に従い、白河5万石を与えられている。

関ヶ原合戦では西軍として参陣するが東軍へ寝返り、戦後、旧領である伊勢国亀山へ封じられた。
慶長15(1610)年、2万石加増のうえ伯耆国黒坂5万石へ移封。
元和4(1618)年、家中内紛のため改易。
子 氏盛が家名存続を許され、近江国蒲生郡に5000石を与えられて寄合旗本に列した。

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。