12.04.10.平塚神社/平塚城跡(北区)
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mixi記事コピペ――2012年04月11日 00:12
12.04.10.
●平塚神社――
ひらつか。
平塚城址。
御祭神は、八幡太郎 源義家、賀茂次郎 源義綱、新羅三郎 源義光。
※平安後期の武将。源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号す。
・義家次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号す。
・義家三弟。武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号す。
御神徳は、勝運、病気平癒、開運厄除、騎馬上達(交通安全)、武芸(スポーツ)上達、立身出世、 事業繁栄、魔除け、心願成就、他。
境内社には、豊島神社(豊島近義を配祀)、稲荷神社、石室神社がある。
平安時代、豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されている。
平安末期、秩父平氏庶流 豊島太郎近義が平塚城を築く。
平塚城は、源義家が後三年の役の帰路の逗留地で、近義の心からの饗応に深く感謝した義家は、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を譲った。
近義は義家が没した後、これを城域の清浄な地に埋め、塚を築き、平塚城の鎮守とする。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、高さが低いために平塚とも呼ばれ、地名の由来ともいわれる。
近義は社殿を建て、源義家、源義綱、源義光の木像を作り、“平塚三所大明神”として祀った。
以後、室町時代まで豊島家代々の居城となるが、文明 10(1478)年1月、豊島泰経の時代に太田道灌によって落城した。
江戸時代、平塚郷の無官の盲人 山川城官貞久(やまかわじょうかんさだひさ。針医で当道座検校(とうどうざけんぎょう))は、平塚明神に出世を祈願して江戸に出たところ、検校の地位を得て3代家光の近習となった。また、貞久は家光の病気平癒を祈願したところ、ほどなく病が快癒する。貞久は感謝し、平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興、買った田地を城官寺に寄進した。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させた。以後、歴代将軍は同様の額を安堵している。
当時、一般諸社寺政策から見て、新規に朱印がくだされることはきわめて異例のことで、もって特別な崇敬がささげられていたことが分かる。
※豊島氏――
としま。
平安時代、律令制度がくずれ、地方の豪族達は武士団を結成した。関東では、国衙の在庁官としての権威を背景に、桓武平氏が武士団の棟梁となる。
桓武天皇の曾孫である平高望に始まり、その子 国香、良兼、良将、良文、良茂、そしてその孫の貞盛、将門の頃には、一族は東国に大きな勢力を誇っていた。
平塚神社ゆかりの豊島氏は、この平良文の流れをくむ。良文の孫、将常は秩父群中村郷で秩父氏を名乗り、その後、武常が利根川や荒川河口付近を開発、豊島・葛西地方に広がる荘園を領した。その子孫が、在名によりそれぞれ豊島氏や葛西氏を名乗る。豊島氏・葛西氏の始祖は武常であり、その長男である近義は豊島太郎と名乗った。
長いものに巻かれてきた一族。まず、平氏一族である。豊島近義は源義家東征軍への参加、豊島四郎は保元の乱で源義朝に味方、平治の乱で義朝が敗れると平氏に仕え、豊島清光は源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府討幕に際は新田義貞に加勢(北条型に与した者も)、のち足利高氏、足利幕府傘下。
文明10(1478 ・古河公方享徳27)年、太田道灌の侵攻により、石神井城、練馬城、平塚城、小机城と落城し、豊島氏は滅亡した。
平塚城――
別称、豊島城
築城年、平安期?
築城主、豊島近義
城主、豊島氏
標高23m/比高17m
廃城年、文明10(1478)年
遺構、無し
●18.09.20.
(→wiki)「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」によれば豊嶋郡の郡衙があった場所に平安時代に豊島近義が築城したと伝えられる。後三年の役の帰路に源義家、義光、義綱の兄弟がこの館に逗留し、手厚いもてなしに感謝した義家は鎧一領と十一面観音像を下賜した。後に、この鎧を城の守り本尊として埋めて塚を築いた。これを鎧塚(甲冑塚)という。また、この塚が高くなく、平たかったことから「平塚」の地名が生まれた、ともされている(しかし、実際には銀環が出土しており、塚は上古の古墳であった可能性が高い)。平塚神社は豊島氏が義家、義綱、義光の徳を慕って三人の宿泊の地に社を営み、影像を奉祀したことが起源とされており、このことから社は昔「平塚三所大明神」と呼ばれていた。甲冑の下賜は単なる伝説であるが、隣接地からは当時の奥州に通ずる道の跡が発見されており、そのため近年では「三人の宿泊自体は十分に有り得たのではないか」とも考えられている(シンポジウム『豊島氏とその時代』、葛城明彦『決戦』ほか)。なお、『桓武平氏諸流系図』には豊島清元の弟として「平塚入道」、後年の『豊島名字之書立』には「平塚豊後」の名が記載されているが、これらの人物と平塚城との関係は明らかではない。
室町時代中期頃に豊島氏は石神井城(東京都練馬区)を築いて本拠とし、練馬城・平塚城はその支城となった(ただし、平塚城については「豊島氏が西方に拠点を移して以降、滅亡直前に至るまで機能していなかった」とする説もある)。なお、近年までは「室町時代の文明年間頃の城主は豊島氏当主泰経の弟の泰明」とするのが通説であったが、現在は研究者の間でも「不明」とされている(「泰経」「泰明」の名も、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかないため、実際そう呼ばれていたか否かは不明である)。文明8年(1476年)、泰経・泰明兄弟は長尾景春に呼応して関東管領上杉氏に反旗を翻し、石神井城、および練馬城(東京都練馬区)で挙兵した(長尾景春の乱)。文明9年(1477年)4月13日、江戸城主太田道灌は泰明の立て籠もる練馬城に矢を撃ち込み、近辺に放火して引き上げた(なお、近年まで道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持[要出典]により「練馬城」が新たな通説となっている)。これを見た泰明は、泰経に連絡を取り全軍で出撃し、道灌の後を追った。さらにその知らせを受けた道灌も引き返し、豊島方を迎え撃ったため、両軍は江古田原で合戦となった((「江古田原の戦い」または「江古田原・沼袋の戦い」)。結果として、豊島方は泰明が討ち死にするなど惨敗を喫し、生き残った泰経と他の兵は石神井城に向けて敗走した(この戦いについては「道灌が少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出したもの」とする説が有力である)。その後、14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現・早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になってからは一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日(または28日)に道灌は攻撃を再開、外城を攻め落としたため、泰経は同日夜に城を捨て逃亡した。翌文明10年(1478年)1月に泰経は平塚城で再挙するが、同月25日に再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして逃亡、以後は行方不明となった。これにより豊島氏本宗家は滅亡、平塚城もその後使用されることなく廃城となった。
江戸時代にはいって将軍徳川家光の頃に神社は針医山川城官貞久によって再興され、家光から寺領50石の寄進を受けた。(←)
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